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糸を手繰る


「ずいぶんと伸びたな」
 殷郊が弟の髪の毛を梳りながら言った。まっすぐに伸びた艶のある黒髪は、在りし日の母を思わせた。晴れの日は、陽に照って美しく輝いたものだった。黒髪もその笑顔も。
 殷郊は口をついて出そうになった言葉を飲み込んだ。
「…邪魔にならないか」
 殷洪の黒目がちの目が瞬いた。それから、首を左右に振った。
「兄様。切らないよ、僕」
 殷郊は弟の髪を梳る手を止めた。存外意志に満ちた声が返ってきたからだ。無邪気なばかりのいつもの弟とは、違った声の調子だった。
「兄様は、崑崙山に登ってきてから、一体どれくらいが過ぎたかわかる?」
「…正確な日数までは」
「そうでしょう。僕もなんだ。登ってきてすぐのころは、日数を数えていたりもしたんだけど。それももうやめてしまった」
 悠久の時を生きる仙道に、年月の感覚など重要ではない。だからこそ、兄弟は戸惑った。彼らは一道士である前に、殷の子、紛うことなき紂王が太子なのであった。

―赤精子さま、下界は今頃どんな花が咲いているでしょうか。
―花か。花ははかない。人間よりもずっと。仙人道士にとって下界が晴れているか雪に閉ざされているかどうかは重要ではないのだよ。そこに咲く花も同じだ。
―では僕も、いつかは下界の花のことさえ忘れてしまう日が来るのでしょうか。
―ああ。きっとな。

「僕は忘れたくないよ、兄様」
 兄ほど賢くはない。先を見通す目を持っているわけでもない。それでも己の胸底のざわめきがある一線を越えることを躊躇わせるのだ。兄はじき宝貝を手に入れるだろう。殷洪がするよりも早く、力を手に入れてそれを御するようになるだろう。その代わりにふり落としてきた多くのもの達をきっと振り返ることもせずに。
「でも、僕ってば忘れっぽいから…こういう風に、形にしておくんだ」
 人が人でなくなるときって、どういう時だろう、兄様。一抹の不安が胸をよぎり、殷洪もまた言葉を飲み込んだ。
「そうか」
 殷郊は相槌を打つので精一杯だった。
 肩まで伸びた黒髪が殷郊の指をすり抜ける。不吉なほどの柔らかさだった。ふとした瞬間に、ふとしたきっかけで崩れ行くような。獄中で果てたかの人を思い出す。
 殷郊は拳を握った。
 殷の城下が遠い。弟がいくら髪を伸ばしても地上には届くまい。届いたとして、女狐に絡め取られて終いなのは目に見えている。だが、殷郊は弟にかける言葉を持たなかった。
 懸けているのは儚い望みなのか、それとも。
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