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抱いて眠る



 弟の寝言にその名を聞いたのは、一度や二度のことではなかった。

 夢見が悪いのか、よく兄の部屋に飛び込んでくる弟は、夢うつつに何度も同じ名を繰り返した。ただ一度の恩義を大層大事に温めている弟は、いっそ哀れなほど愛おしかった。
 力を持たず鳴いてばかりの雛鳥の、本能に刷り込まれてしまった清い後姿。

―いつまでも一緒に、というわけにはゆかないのだな。

 恩を忘れたわけではない。むしろその逆だ。命を救ってくれたことに関して感謝が尽きることはない。そしてその感謝の心には一片の偽りもない。
 ただ、隔てる壁があっただけだ。相手は崑崙の道士、殷の敵。そしてこちらは殷の正当なる王太子。二つの事実の間に横たわる溝は決して埋められることはない。ただそれだけのことだ。

「(あの人は分かっていただろう、僕がいつかは己に牙を剥くことを)」

 見捨てぬ、と言った横顔があった。
 淀んだ空気の中少しだけ呼吸が楽になったのは、吹き込んできた風のおかげだろうか。

 殷郊はそっと目を閉じた。

「…父さま、母さま」
 呼ぶ声が聞こえる。かつては諌めた幼言葉がやわらかな響きをもって殷郊を眠りへと誘う。
「兄様」
 その優しい響きだけを抱いて、眠りにつくことは果たして許されるだろうか。立場も、責務も、すべて放り投げて、ひとりの人間として会いまみえる日が来ることを願うのは。
「   」

―ああ、もしかしたら僕も、その名前をずっと呼びたかったのかもしれない。
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