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白い夜明け

―僕が、本当に幼かった頃の記憶だ。

 父上は、真っ白な礼服に身を包み、朝の光の中に静かに佇んでいた。その腕の中には、父上の二人目の子供、つまり僕の弟が抱かれて眠っていた。弟は朝方生まれた子供だった。眠っていた僕は、にわかに外の喧騒に起こされた。何事かと思って起き上がると、そこにはうっすらと汗の浮いた顔で微笑む母上と、弟を抱き上げる父上がいた。僕は息をのんでしばしその光景に見入った。僕が、本当に幼かった頃の話だから、その後の記憶は定かではないけれど、朝の光の中、まぶしく浮き上がる父上の白い背が、まるで地上の太陽に見えたことはよく覚えている。
 父上は賢明な人だった。政務に励む父上の横顔の凛々しいことときたら、僕の知るどんな賢者だって及ばないほどだった。同時に、とても勇猛な人でもあった。父上はよく鎧を身に付けて、遥か遠くの地まで戦いに行ったものだった。父上が戦っているところを実際に見たことはないけれど、ともに戦いに出向いた将軍たちが、父上がいかに勇敢に戦ったかをよく語ってくれたので、父上の強さはよく理解しているつもりだった。弟は、そんな父上の鎧に染みついた血のにおいを怖がっていたようだったけれど、僕はその匂いをむしろ誇らしく感じていた。

 父上が変わってしまったのは、あの女がやって来てからだった。あの女が来てから、すべてが悪い方向に向かい始めたのだ。母上は笑わなくなった。いつも悲しそうな顔をして、外を眺めているようになった。時折は涙すら流しているようだった。僕は、母上を慰めようとして、多くの言葉をかけたけれど、母上の笑顔はどうしても以前のようには戻らなかった。

―父上は、父上はどうしてしまったのでしょうか。このところ母上は泣いてばかりだ。
―父上はね、私ではない他の女のひとを、好きになったのよ…
―母上が、こんなに泣いているのに?
―ねえ、殷郊。
―母上、僕は…。僕は母上を守ってさしあげたい……
―ありがとう。あなたはとても、やさしい子ね。
―………。
―殷洪、あなたの兄上はとても立派よ。
―…殷洪は、まだ小さすぎて、ことがよく分かっていないのです…
―そうね。だから殷郊、あなたがこの子を守ってあげるのですよ。
―殷洪は、泣き虫で…よわっちくて…
―ええ。
―でも、僕は…母上も殷洪も大事なんだ…。
僕にもっと力があったなら、二人にきっと悲しい思いなんかさせないのに……

 父上は、すっかりめくらになってしまったようだった。賢君と呼ばれたりりしい横顔はもはや遠い過去のものになっていた。いつも傍らに女の人―それは母上ではない―をはべらせて、ぼんやりとした様子だ。
 父上が僕の横を通り過ぎるたび、僕はどんな顔をしていいかわからなくなった。父上が通り過ぎた後には、いつもねっとりとした甘いにおいが残って、くらくらする。よくないものの影が、前から後ろから迫ってくる気配を感じながら、僕はそれに対抗する術を持たなかった。僕は、そんな自分に一等腹が立った。滞りなく回っていた歯車が、少しずつずれて回り始めたのは、間違いなくあの女のせいだった。父上は、長い睫毛に隠された瞳の奥に、隠し切れぬ野望の光りがきらめいているのに気がつかなかったのだろうか。空気が溜まる、沈む、淀む。ままならない日々の中で、息苦しさだけが募っていった。けれど僕にできたのは、ただ見ていることだけ。

 ある日、弟が大きな目を潤ませて、僕にこう言った。

―兄様、僕、こわい。

 それから弟は火が着いたように泣き出した。僕は驚いて、そのときうまく言葉が出なかった。何が、とは訊けなかった。何も知らずにいたと思っていた弟が、こわい、と言って泣いている。僕は小さな弟の髪を撫でてやりながら、この弟に悲しい思いをさせないために、僕ができることについて考えを巡らせていた。たとえ掌に握った刃が折れようとも、決してこの手を離すまい。僕が盾になるのだ。この城に充満するすべての敵意から、大事なものを守るために。

 こわくないよ、と僕は言った。弟はしゃくりあげながら顔を上げた。涙やら鼻水やらでくしゃくしゃの顔。僕はなんだかおかしくなって、お前はそれでいいよ、と小さな声で付け足した。弟は、よくわからないといった顔で、それでも少し安心したように頷いた。

―僕が守るよ、殷洪。だからもう泣くな。


 武成王黄飛虎に、朝歌からの脱出を持ちかけられたのは、ちょうどそれから一年が経過しようとしていた頃だった。荒廃した城下や、堕落した統治を語る黄飛虎の真剣なまなざしを目の当たりにして、僕は、懐で大事に温めてきたものにひびの入る音を聴いた。それは遠い日の鏡のような虚像だった。まぶしい朝の光の中、浮かび上がる白い背、その夢のような光景を何度も何度も再生しながら、しかし僕は、目の前の現実をどこか冷めた思いで受容していた。ついにこの時が来たか、と、冷めた自分がひとりの罪人を薄く笑っている。もしかしたら、罪人は、彼ひとりではないのかもしれない。だが、割れた鏡の欠片を、もはや拾い集める気にはなれなかった。
 隣で僕と同じ話を聞いていた弟は、やはり状況がうまく呑み込めていないらしく、しじゅう怪訝そうな顔で僕の方を見た。

―殷郊さま、殷洪さま。ご決意を。
―決意って、なあに、飛虎。
―禁城はもはや敵だらけです。このままでは、私も殿下を守り切れる自信がございません。
―飛虎、僕はこの国の王太子だ。おめおめと逃げるわけにはいかない。

 遠い目で終わりを見つめながら、それでも毅然と前を向いて立たなければならないのは、ひとえに僕がこの国の王の子であるからだった。どんな危機的状況に置かれようとも、この血が僕に膝を折ることを許さないのだ。

―殿下、どうか…ご賢察を。

 生きていれば成せることもありましょう、と黄飛虎は僕たちの背を押した。走らなければならない。命を狙う刃から、昏君の子とそしる声から、たったひとりの弟を守るために。そうして夜明けとともに、僕たちは禁城から着の身着のまま飛び出した。白みゆく空の色に、遠い記憶が脳裡をかすめるのを感じた。けれど感傷をふり捨てて、僕は弟の手を引いた。
 白は殷の象徴だと教えてくれたのは父上だっただろうか、それとも別の誰かだっただろうか。それももう忘れてしまった。


―殷郊。予は、この殷の国にはためく白旗なのだ。
―人々が暗闇に惑い歩くとき、その道を示すための導になること。それが殷の天子の役目なのだよ。
―強くあれ、殷郊。毅然と胸を張って。おまえにはこの国を手にする権利がある。

―はい、父上。

 それは、僕の知る中で、もっとも美しい記憶だった。

 白旗は風を手放し地に斃れた。しかして、この国の導は失われた。「生き延びてやらなければならないことがある」などと口先だけの弁明をしながら、僕は逃げる。そんな僕を指差して笑うまぼろしが、胸のやわらかい場所を引っ掻くように苛んだ。僕は歯を食いしばり、それでも走った。笑うなら笑うがいい。僕は戻る、再び戻る。その時までせいぜいあざけり笑うがいい。割れた欠片を踏み、名状しがたい苦みを飲み込み、ようやく千里に至ると見えども、いまだ陽は昇らない。
 やわく小さな掌が僕の袖を引き、かすれる声でこう言った。僕らはどこに行くの、と。僕はそれに答える代わりに、その手を強く握りしめた。導なき暗夜が明ける日まで、けしてこの手を離すものか。
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